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#53 入院記⑥ 生きるために生きる

みんなは何のために生きてる?
二十歳を越えてる人は、そんな考えても埒が明かないことを考えた時期があっただろーし、今も考えてるかも知れない。
企業戦士はそんなこと考える暇など全く無くて、日々仕事をし、生きていくのに精一杯かも知れない。
逆に、そんなことほとんど考えずに、毎日楽しく生きている人もいるかも知れない。
そーゆー人って、多分、そーゆー性分で、幸せだろーなーと思う。
でも、僕はやっぱり観念的な人間なので、特にこーゆー体が思うようにならない時、こーゆーことを考える。
考えてしまうとゆーより、積極的に考える。
そんなこと考えない人を羨ましくも思うけど、かと言って自分がそーなりたいとは全然思わない。

僕は、もーあの鬱から脱却してから、ずっと「肩で風切って生きる」ことが人生の目標だ。
要するに、自信を持って、それを補完する知性と精神力と具体性を養って、笑いながら偉そうに生きたいのだ。
そのために勉強もするし、本も読むし、様々な人に会い、話し、様々な場所に行く。
未来のために自分を鍛えると同時に、その鍛えるという行為自体を楽しんで、「未来」のためだけじゃなく、「未来」と「今」のために「今」を生きる。

しかし今、僕は「未来」のために生きているわけでも、「今」を楽しんで生きているわけでもなく、ただ「生きるために生きている」・・・
何も希望がないわけではない。
一番はやっぱり飯かな~。
良くなったら、ぜって~体に悪いモノたらふく食ってやんだ~とか、ホルモン焼き行って、ビールとタバコだ~とか。
でも、それは所詮希望であって、以前の入院記で書いたように、今は選択肢の無い自由時間を消費して、今を生きるために生きているだけだ。

そりゃ世界には、その日を生き延びることだって、当たり前でない人達はたくさんいるし、日本にだって、とゆーか俺の病室にだって、俺よりはるかに苦しい闘病生活を送っている人だっている。
頭ではわかる。ちゃんとわかる。
でも、だからって、自分の痛み・発熱などの具体的な苦しみや、精神的な苦しみを簡単に相対化することはできない。
どうしても絶対化してしまうのだ。
あの人に比べれば、世界の貧困層に比べれば、なんてなかなか考えられないよ。
考えたところで、相対的にその人より、マシなだけであって、マイナスであることには変わりがないんだ。

ただ、それでも僕は希望を失わない。
そりゃちょっと前みたいにすげー落ち込むこともある。
でも、いつかは良くなるだろーとは思ってるし(同時に、さらに先、また悪くなるだろーとも思ってるけど 苦笑、)、良くなったら色々やったろーと思っている。

でも、もしその希望がなかったとしたら、僕はどう考えるのだろう。

昨年11月にがんで亡くなった、ジャーナリストの筑紫哲也氏が、最後の多事争論でこーゆーことを言っていた。
「政治は世代間のパイの奪い合いという。だが今この国では、若者への教育費や、高齢者への医療費削減に見られるように、未来にも過去にも投資していない。がん患者は、本来活動に使うべき栄養を、がんとの闘いだけに費やす。この国は、がんにかかっている。」
筑紫哲也は、自分が闘っているがんになぞられて、日本の現状を憂い、警鐘を鳴らしたのだろう。

僕はこの言葉がとても心に残っていて、日本の政治はただ主導権争いになってしまっていて、本質的なことがなされていないな~なんて、思っていたけど、入院して、自分の病状や周りの入院患者を見ているうちに、日本じゃなくて、病人自体について考えるよーになった。
「生きるために生きる」ってすごく辛いし、そこに希望がない場合、人って頑張れるのか?、または頑張る意味はあるのか?と思った。

多分、僕は今ものすごく視野が狭くなっているので、偏った僕の発言で傷ついたり、ムカついたりする人がいるかも知れない。
もし不快に思う人がいたらごめんなさい。
でも、今の自分が考えてることを書こーと思う。

前述の通り、僕には希望があるし、なかなか病状は良くならないけど、数週間後か数ヵ月後か飯も食えるようになるだろーし、普通に飲んだり、遊んだり、笑ったりできるようになるだろー。
でも、病院で見ていて、とてもそーゆー風には見えない人がたくさんいる。
特に高齢な人は。

ホントに失礼だとは思うんだけど、あー、この人は、こーやって、毎日生きるために生きていて、でもだんだん体が弱くなって、いつか死ぬんだろーと思ってしまう。
一日中ベッドにほとんど寝たきりで、寝返りもうてず、おむつにクソをもらして、笑うこともなく、生き恥を曝して、いつか死ぬ。
頭がしっかりしている人もいれば、結構ボケちゃってる人もいる。
しっかりしている人はしっかりしている人で、自分が何もできないのが堪えられなくて辛いだろうし、家族や周りの人間に迷惑をかけているのがたまらなく辛いだろう。
ボケちゃってる人は、その人自身はいーかも知れないが、でもその本人自身が自分の意志を持って生きていると言えるのだろうか?

加えて彼らは自ら死ぬこともできない。
僕は何も自殺をすすめているわけではない。
自殺なんてホントに馬鹿げていると思う。
でも、回復の見込みのない人についても、自殺は絶対悪かと言われるとそーとも言えない気がしてくる。
特に頭がしっかりしている人は、ある程度自分の行く末が見えてしまうかも知れないし、周りに迷惑をかけていることを恥じて、非常に苦しいかもしれない。
こんなんなら死んだ方がましだ。と思う人も必ずいるだろう。
でも、死ぬこともできない。
それって辛いだろうなと思う。

ただ人間の回復力って案外すごいらしー。
だから僕が、この人はもーこのまま徐々に徐々に弱っていって、いつか死ぬんだろーと思っている人が回復したりすることもあるよーだ。
多分、本人も家族も医師も看護士も、その希望を信じてじっと耐えたり、リハビリしたりするんだろうけど、その希望がなかったりしたらどうなるんだろう。
もしくは、頑張っても、それが報われなかった場合は、死ぬ間際どう思うのだろう。

例えば、余命半年と言われて、苦しい治療を続けて、1年生きた。
それって幸せなんだろうか。
医師の診断より長く生きたってことで満足できるんだろうか。
しかも、その治療方法を採るにあたって、患者本人の意思はどれくらい反映されているのだろうか。
少しでも長く生かすことを使命とする医師や、少しでも長く生きてて欲しいと思う家族のエゴでそーなってはいないのだろうか。

僕自身そこまでの状態になったことがないから想像しかできないけど、僕は、例えば余命半年と言われて、それを1年に延ばしたところで、それが「生きるために生きる」毎日であって、結局そのまま逝ってしまうくらいなら、早く逝ってしまうとしても、残された日々を何か自分のやりたいことのために生きたい、と思う。
そしてどんな治療をするのか、またはしないのか、どんな生活をするかは、選択肢を提示してもらった上で、自分の判断で決めたい。
もちろん、病気による痛みや苦しみがあると、やりたいことをやる気も失せてしまうとゆーのは、僕がすごく理解しているところではあるけれど・・・
もし、もーどうしようもない病状で治る見込みもなく、苦しいだけなら、いっそ死にたいと思うかもしれないな~。
治る見込みもないのに、人に迷惑をかけるのは嫌だし。
そーゆー場合の自殺は、若者の自殺や経済的な理由を苦にしての自殺とは、また種類が違うんじゃないかな~と思う。

僕は18の時に、もー健康の大切さを知ってしまった。
そんな若くして「健康第一」なんて思いたくないんだけど・・・苦笑
こーゆー時はやっぱいつも以上に考えるね。
早く健康の大切さなんか忘れて、無茶できるよーになりてーな。
生きるために生きるなんてやっぱり嫌だ。
自分がより成長するために、笑って過ごせるよーに生きたいな~。
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