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#43 遺心伝信 第8稿 ~挫折~ & 静岡・京都 pics

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(京都 嵐山)

「挫折」とは、
本気で何かに打ち込んで、突き詰めて、でもそれが成し得なかった時にだけ経験できること。
一心不乱に、遮二無二頑張った者だけが経験できる、ある意味、「ご褒美」だ。
ご褒美のくせに、目茶目茶辛いけど。
でも、挫折を乗り越えた時、また一つ大きくなれる。



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(嵐山)

 君たちには挫折の経験がありますか?「挫折」というものをどれくらいの重みで考えるかは、個々によって違うから、経験があると思う子もいれば、ないと思う子もいるだろう。他人から見て、大したことない問題であっても、本人にとって極めて重大なことなら、それを挫折ということもできるだろー。
 ただ、そーは言っても、君たちの多くは、まだ挫折と呼ぶにふさわしい程のことを経験していないだろーと推測する。(無論、君たちの中には、僕が想像できないような挫折を味わっている子もいるかもしれない。)
 僕には、挫折の経験がある。それは、いつ明けるともわからない夜の闇だった。いつ抜けるかもわからないトンネルだった。それは、僕が24になる年の夏から、26になる年の初夏まで約2年間続いた。
 僕は、大学でスクーバ・ダイビングと出会った。タンクを背負って、海に潜る、あれだ。大学時代は、主にサークルで潜っていたのだが、素晴らしい友達に恵まれ、サークルを心底楽しみ、また海や水中生物、ダイビング自体が心底好きだった。特に3年、4年の時は、海外のダイビング・ショップでバイトをしたり、また、ほぼ毎週末、伊豆に潜りに行っていた。サークルのみんなに呆れられても、みんながスノボをやっている時期でも、僕は極寒の中、ウエットスーツで海に潜り、水中写真を撮っていた。それが、僕にとっては至上の喜びであったのだ。
 そして、それだけ潜っても飽き足らなかった僕は、大学卒業後、当時愛していた人と沖縄に移住することにした。当時、その無謀とも呼べる決断を、友達はすげーと言ったり、馬鹿じゃないの?と言ったりした。確かに、無謀っちゃ無謀かも知れないし、人生を長期的な視点で見てなかったかもしれない。すげーと言った友達は、自分ができないことを平気でやる僕に対して、羨ましく思っていたんだろー。でも、僕は、すげーと思われたいわけでも、突拍子もないことをやりたかったのでもなく、ただ純粋に沖縄に住み、沖縄の海に潜りたかったのだ。当時の僕にとっては、それはある意味、必然のことだった。行きたいから行く、潜りたいから潜る、ただそれだけのことだった。
 そーやって、僕らは沖縄本島の中でも、海が綺麗で、ダイビングポイントがたくさんある恩納村というところで、文字通りダイビング三昧の生活を始めた。もちろん生活はしていかなければならなかったので、お互いにバイト程度のことはしていたが、昼間は海に潜り、夜はバイトするという生活を数ヶ月続けた。こんな楽園のような生活、将来のことを考えるといつかは終止符を打たなければいけないだろーとは思っていたが、あんな形で突然終わるとは思っていなかった。
 2004年の8月9日か10日だった。彼女はバイトか何かで潜りに行けなかったので、僕は一人で海に出かけた。いつも通り、かなりの深場-40~50mまで潜り、浮上速度に気をつけながら-4~5mの浅場まで時間をかけて上がってきた。(君たちには、ダイビングの知識がないだろうから、軽く説明すると、ダイビング中に深いところから急浮上することは極めて危険な行為なのだ。それは、呼吸を止めて浮上したことによって肺が膨らみすぎて破裂してしまうエアエンボリズムとゆー病気の危険性もあるが、ある程度経験を積んだダイバーならそこまでのことはしない。それよりも、深い水深で、タンク内の濃い空気を吸った後、浮上する際に、浮上速度が速すぎると、体内の血中に溶け込んだ窒素が血管内で飽和状態になって、気泡になってしまい、その気泡によって血管が閉じられ、主に肘や膝などの関節や神経などを痛める減圧症という潜水病が危険なのだ。軽い場合は違和感、だるさ、関節痛程度だが、ひどい時はしびれ、麻痺が起こったり、骨が壊死したりする。)深場に潜るとゆーことは、常に減圧症の危険が付きまとうので、かなり長い時間浅場で窒素抜きを行った後(水深-3~5mで長時間滞在することによって、窒素を体内から抜き、減圧症にならないようにする)、浮上しようとした時、右手がピリピリと痺れた。正直、それ以前から、関節痛などは時々起こっていて、まー、多分違うだろう、大丈夫だろうと高をくくっていたが、しびれは初めてだったのでかなり焦った。遂にやっちまったか、と思いながら、かなり微妙な症状だったので、勘違いかな~とも思っていた。
 家に戻り、やはり心配だったので、沖縄の減圧症に詳しい医師のいる病院に電話をかけ、相談をしたところ、それは減圧症の可能性が高い。今からか、遅くとも明日の午前中には来て診断を受けなさいと言われた。ショックだったが、症状ももー消えていたし、明日問題がなければいーだろーと思っていた。
 次の日、朝から1時間ほどかけて病院に行って、5時間にも及ぶ高気圧酸素治療を行ったが、なんの症状もなかったし、体に変化はなかった。先生からは最低1ヶ月の潜水禁止を言い渡されたが、9月にはたくさんのダイビング仲間が沖縄に来る予定だから、色々潜って、レアな魚を見つけとかなきゃと内心思っていた。そーやって、僕は結局数日間潜らなかっただけで、また潜ってしまったのだ。
 今度はひどかった。痛くて我慢できないということはないが、膝や肘にはっきりと痛みを感じたし、右の二の腕と右のすねに明らかな違和感、しびれを感じた。それは陸に上がってからも全然消えることはなかった。やっちまった・・・と思った。2004年は台風が多い年だったが、気圧の変化の影響があるのだろう、台風が近づくたびに、いや~な鈍痛が増した。結局その違和感、鈍痛は2年近く消えることはなかったし、今でも時々違和感があることがある。日常生活に全く問題はないのだが、あの頃の沈んだ気持ちを思い出して嫌な気分になる。
 そーやって、僕は、自分が心底愛していた海から、ダイビングから離れざるを得なくなった。人は言う。「たかがダイビングじゃん!」確かに人によってはたかがダイビングだと思う。「自業自得でしょ。」はい、全くその通り。誰のせいでもない。自分の責任だ。
 でも、僕は本当に海を、ダイビングを、心から愛していたのだ。当時勤めていた塾の金儲け主義や、塾に来る生徒の猿並みの言動にも嫌気がさしていたが、僕は本気で水中写真家か、ダイビングインストラクターで生きて行こうと思い始めていたのだ。希望に満ち溢れて移住して、たった4ヶ月で、僕は海を奪われた。僕がどれだけ海が好きだったかは誰にもわからないと思う。そばにいてくれた彼女にだって、ホントの意味ではわからなかったと思う。それは、僕の方が彼女に比べて、海をもっと好きとか、さらに好きとかではなく、好きにはそれぞれの愛し方があるとゆーことだ。また、僕がその後の約2年間どれほど苦しんだか、辛かったか、それも誰にもわからないと思う。理解して欲しいとも思わないし、共感して欲しいとも思わない。そんなことはそもそも無理だから。
 ただただ僕は辛かった。家の玄関を開けると、目の前に海は広がっているのに、僕は潜れない。何もする気にならなかった。毎日のように泣いていた。彼女が僕を元気づけようと、外に連れ出そうとしてくれても、僕は全くそれに応えることも、応えようともしなかった。僕の希望は、先生が言った、3ヵ月後の復帰ダイブ、それのみだった。高気圧治療は続けていたが、3ヶ月の間に違和感、しびれなどは出たり、消えたりの繰り返しだった。3ヵ月後には、しびれは多少治まり、僕は完全復帰の希望を持って、復帰ダイブに臨んだ。だが、話にならなかった。たった水深-3~4mで、腕にしびれが出た。なんとなくではなく明らかなしびれだった。僕は、こんな腕無くなってしまえばいーと、水中で泣きながら岩に右腕を何度も叩き付けた。当然復帰ダイブは中止。全ての希望を失ったと言っても過言ではなかった。(その後僕は、何回か復帰ダイブに挑戦している。3回目の復帰ダイブは2005年の11月26日だったみたいだけど、その時もダメだった。)
 あの状態を「鬱」とゆーのだろー。僕は現実の世界にいるのが嫌で、毎日12時間以上寝ていた。起きている時も、潜れないとゆー想いに頭が占拠されるのが嫌で、頭を使わないよーに、テレビばかりを見ていた。かと言って、気分転換にどこかに行こうとか、新しいことをしよーとかゆー気にも全くなれなかった。彼女は相変わらず僕を支えようとしてくれたし、実際支えてくれていたが、僕はそれに全く応えることができず、むしろ、泣き言を言うか、自分のどうしようもなさにイライラして、彼女にひどいことを言ったりして、泣かせたことも何度もあった。その頃には、僕は完全に昼夜逆転生活になり、彼女ともすれ違うことが多くなった。僕はもはや玄関を開けたら見える青く美しい海を見ることも、自分が置き去りにされたよーに感じて、嫌になっていた。携帯が鳴るのも、人に会うことも嫌になっていた。加えて、沖縄の良いところでもあり、悪いところでもある、ゆとりや適当な文化にいつも腹を立てていた。トロトロ走る車、羽アリ、湿気、役所の出来の悪いおばさん、とにかくなんでもかんでも僕をイラつかせた。少数の心を許せる友人や先輩以外、沖縄の全てを嫌っていたし、こんなところ、海がなければ何もいいところはないと思っていた。そして、実質的に僕にとっては、海はなかったのだから、何もいいところがなかった。
 僕が減圧症にかかってから約1年後、彼女は僕のところから去っていった。別れる1ヶ月程前から、僕は彼女の心が離れつつあるのが分かったし、もしここで一人にされてしまったら、自分がどーなってしまうか不安でしょうがなかったから、僕はあの手この手で離れていく彼女の心をたぐり寄せようとした。が、無駄なあがきだった。当時の僕は結局自分のことしか考えていなかったのだ。彼女のためにではなく、僕のために彼女にそばにいて欲しかったのだ。彼女を自分の方に取り込もうとしていただけだった。なんたる身勝手。でも、あの時はそーすることしかできなかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 今僕は鬱を乗り越え、確信ではないが、ある程度の自信を獲得し、自分の人生に誇りを持って生きている。それは、この挫折とそれに伴う長い鬱を乗り越えたからだ。だから、僕は、今ではこの2年間は自分の中でかけがえの無いもので、この2年間がなかったら、なんて想像すらできないが、彼女に対してだけは、感謝と後悔の念でいっぱいだ。彼女は彼女の進む道を見つけ、それをまっとうし、今また新しい道を進もうとしている。彼女は今でも僕の仲の良い友達として付き合ってくれているが、僕は当時のことを思い出すと、いつもどうしよーもなく胸がしめつけられる。僕と同様、彼女も希望を持って沖縄に移住したはずなのに、1年間も非常に辛い想いをさせたという申し訳なさと、それでも1年もの間、僕を支えてくれたことに対する感謝でたまらなくなる。彼女は、当時のことを悪く言ったりしないし、多分それが本心だと思うが、僕にとっては、やはり重過ぎるのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 彼女が去って、僕はまさに生ける屍になった。僕は、大学卒業前、就職もせず、沖縄に移住することを決めた時、俺には金が無くても、海があって、彼女が一緒にいてくれればいーという想いがあった。当時23歳。幼稚と言えば、幼稚だが、それだけの覚悟もあったつもりだ。
 でも、沖縄に来て、4ヶ月で海を失い、その1年後彼女も失った。僕が本当に大切だと思い、心底愛したものを、自分のせいで失ってしまった。全てに絶望し、僕は沖縄に、この世の中に何の希望も持てなかったし、僕は誰からも必要とされていないのだと感じていた。自殺しようなどとは思わなかったが、俺なんか死んでしまえばいーと思っていた。そーやって、僕の沖縄2年目は過ぎていった。
 ただ生来の負けず嫌いな性分がわずかながらでも残っていたんだろー。徐々に、ホントに歩みは遅かったが、なんとかこの闇から脱したいと思い、動き始めた。幸い、沖縄2年目に勤めた予備校は、僕をあたたかく包んでくれたし、そこには僕が人生で最大の「出会い」だと思っている偉大な教師がいた。全てではないにしろ、僕の苦しみをわかってくれるダイビングの先輩や、沖縄や大学時代の友達も支えてくれた。僕の沈んだ気持ちなどお構い無しに、ワイワイガヤガヤと僕の心を揺り動かす予備校の生徒たちもいた。そんな中で、僕は、支えられ、必死にもがき、また落ち込み、またもがいていた。
 大学時代はほとんど連絡を取らなかった、実家の親父にもよく電話をした。親父に「明けない夜はない」、「鬱は風邪みたいなもんだよ」と言われ、精神科にも行った。そこで処方された薬は、初めて精神科にかかった人の多くに処方される初歩的なモノだったが、驚くほど良く効いた。スーっと気分が楽になったのだ。多分、その薬が特効薬であったとゆーことはないだろー。僕は、その時、必死にもがいていたし、段々笑えるよーになってきていた。「夜明け」は近かったんだと思う。この薬、絶対効いて欲しい、効くはずだ、と思って飲んだから、プラシーボ(偽薬)効果もあったのだろー。僕は、徐々に自分を取り戻し、素直に笑えたり、怒れたり、感情を表に出すことができるようになった。偉大な師に出会い、教えられ、鍛えられ、こんな教師になりたいと、自分のためにとことん英語を勉強していた、ということも鬱から脱することができた一因だと思う。結局その薬は2ヶ月くらい飲んだが、その時には僕はもー薬を必要としなくなっていた。
 夜は明けた。僕は苦しみながらも、約2年間もかかったけど、トンネルを抜けた。この時の喜びは、何にも換え難く、そして、苦しんだ2年間もその時に、僕にとってかけがえの無いものとなった。
人によっては、こんなもの何の苦も無く切り替えて、次に進んでいけるかも知れない。そんな簡単じゃないにしろ、2年もかからず、数ヶ月で乗り越えていけるかもしれない。でも、僕はそれだけの時間がかかったのだ。自分の弱さを認め、悩み、苦しみ、それを乗り越えるにはそれだけの時間が必要だったということだろー。沖縄で過ごした2年半のうち、約2年は僕にとっては空白の2年であると同時に、ものすごい密度の2年だった。否応無く、自分というものに向き合う、向き合わざるを得ない、僕にとっては必要な時間だった。

 今まで頭で考え、理性的、論理的に書いてきたエッセーと違って、今回は僕の経験に基づいた話だ。だから、君たち全員に、挫折をしなさい。と言うわけにはいかない。挫折は乗り越えられれば、それは自分にとってものすごく大きな財産になるけれど、乗り越えられない人だって、世の中には大勢いる。心底落ち込んでいる時に、これを乗り越えたら自分は大きくなれる、なんてなかなか考えられない。ただ苦しい、逃げたい、ほとんどそればかりだ。
 さらに、挫折はのほほんと生きていたってやってこない。上で書いたように、本気で何かに打ち込んで、でもそれが成し得なかった時にだけ経験できる、ものすごく苦しい「ご褒美」なのだ。君たちはまず、誰がなんと言おうとも、揺るがない、本気で打ち込める何かを見つけることが先だ。僕にとっては、ダイビングだった。君たちにとっては何かな?それは黙ってたって見つからないよ。自分から探しに行かなきゃ。世の中には、一生見つけられない人だってたくさんいるんだから。だから、第1稿で書いたように、「出会い」はとっても大切なんだ。僕は、本気になって打ち込めるものが見つけられて、本当に幸せだと思っている。
 君たちにもいつかそーゆーものが見つかることを僕は願っている。そして、変なこと言うよーだけど、打ち込んで、突き詰めて、喜び、悲しみ、苦しみを知り、挫折して欲しいと思う。そして、もがき続けて、挫折を乗り越えて欲しい。そしたら、すげー自分がそこにいると思うな~。
僕は悩んでる生徒によくこー言う。「楽しいだけの人生なんてつまんね~よ。」本気で生きてれば、その意味が本当に分かる時がいつか来ると思うよ。
 僕は、ダイビング亡き後、本気で打ち込めるものが見つかった。それが2年間の鬱から脱却したもー一つの大きな要因だと思っている。それが「教育」だ。僕は、沖縄で出会った偉大な教師のよーな、本物の教師になる。だから僕は決して妥協しない。君らと常に本気でぶつかってる。僕は、あの挫折の後、まだ次の挫折に出会っていない。まだまだ本気度が足りないのかもしれない。挫折を目指してやるわけじゃないけど、挫折来いや!くらいの気持ちで、人目を気にせず、恥をかいて生きなければいけない。そんな自分が楽しみだ。

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(CGのような清水寺・・・)

追記
ちなみにダイビング復帰だけど、2006年の8月3日の4回目の復帰ダイブにて、たった水深-3mだけど、問題なく潜ることができた。減圧症罹患後、実に2年振り。その後なんとか‐10mまで大丈夫だとわかり、去年の7月には‐15mまで潜れるよーになった。まだ潜った後、若干の違和感はあるけれど、なんとかその水深までは大丈夫なよーだ。以前バリバリ潜っていた時のように、-40~50mとゆー水深には多分一生行けないけれど、僕が命と見立てたダイビングが少しでもできるだけで、僕はたまらなく幸せです。

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(清水寺)

 今回は約1年前、卒業したての教え子と行った、静岡と京都の写真を。
まずは08年3月8日静岡から。

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一番の目的はなんと言っても、イチゴ狩り。
真樹君に教えてもらったイチゴ園で、たらふく食ってまいった。

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俺は用意周到にマイ練乳を持っていったが、全然不要。
そのイチゴ園の「章姫」はとにかく甘くてうますぎて。

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あんなうまいイチゴは生まれて初めてで、しかもダントツトップ。
イチゴ狩りのイチゴってあんまおいしいイメージ無かったけど、うますぎ。
今年も行きたいな~☆

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焼津さかなセンターにも行って、中トロ食いまくり。

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そして例の謎の看板・・・やはり腑に落ちない。

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海も見たくて、御前崎も行ったけど、いちご園とさかなセンターでゆっくりしすぎて、もはや日もとっぷり暮れてしまってました。

静岡はあったかくて、海があって、おいしいものいっぱいで、いーよな~。

続いて、3月16日の京都。

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渡月橋とまりえ橋。
馬鹿だね~。

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京都駅で、アフロづらかぶって待っていた忠地君と合流。
久々に超バカ話でバカみたいに笑った気がした。

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竜安寺の石庭、枯山水。
意外とちっちぇ~。

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しばらくじっと見ていたけど・・・あの庭に宇宙があるとかなんとか・・・・
よくわからんとゆーことがわかった 苦笑。

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平安神宮にて。

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まりえ、てぃーちゃん、みゆき。

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清水寺と言えば、「頭のよくなる水」、「綺麗になる水」、「長生きの水」ですが、どれがどれって表示が見つからず結局、心意気で飲む羽目に・・・

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八坂の塔

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同僚の先生に教えてもらった、草わらび餅の老舗「洛匠」
確かに激ウマ。
ひんやりしてて、トゥル~~ンってしてて美味すぎ。

大学に行って、めっきり連絡をよこさなくなった奴ら・・・そんなもんです 苦笑。

以上
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コメント

あいみへ

馬鹿だな。
わけわかんね~、歌みたいなん詠んだ感じになってるし。
しんどいっつの。

明日と月曜はびっちり休みます。
あ、遺心伝信書かねば・・・

2009/02/27 (Fri) 22:42 | joe #uxYHNhu6 | URL | 編集
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2009/02/26 (Thu) 23:06 | # | | 編集
あいみへ

適当なことばっかり言いよって・・・笑
ほんま苦しいんやぞ。
まー、わかるわけはないがね・・・

しかもバスケで腰もやっちゃったからな~。
選手生命に関わるわよ。
さらに目にもくらって、流川やし。
カリメロ薬局の薬よこせ。

2009/02/26 (Thu) 19:57 | joe #uxYHNhu6 | URL | 編集
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2009/02/26 (Thu) 00:21 | # | | 編集
あいみへ

そーです。
色々あったんです。
でもそーゆーものに俺は形作られているんだな~・・・笑

イチゴ狩り行きたいよ、俺がマジで。
でも体こんなやし・・・あ~あ。
イチゴどころか何も食えないし・・・あ~あ。

でも心は元気!
あと1ヶ月楽しみましょう☆

2009/02/25 (Wed) 19:12 | joe #uxYHNhu6 | URL | 編集
ちかちゃんへ

今日休んでたな~。
また今日も遺心伝信第10稿渡しに行ったけどいなかったから・・・
りえに渡しといたからもらって。
ぐちゃぐちゃになってそーやけど・・・笑
そやったら、また俺んとこもらいにこいよ。
第10稿は僕の偉大な師についてです。
世の中すごい人はいるもんだ。

勉強に打ち込むっつーのも、若い頃は特に、なんかつまんない気がしたりするんだけど、だからってフラフラしてるよりよっぽどいいことだと思うし、可能性を広げるためには、まずいい大学に入るってのも間違ってないし、むしろ王道のルートだと思います。
ビシっとやりんしゃい!!

2009/02/25 (Wed) 19:10 | joe #uxYHNhu6 | URL | 編集
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2009/02/24 (Tue) 23:50 | # | | 編集
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2009/02/24 (Tue) 23:23 | # | | 編集

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