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#35 遺心伝信 第3稿 ~KY~

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KY = 空気読めない ではなく、
KY = 空気読んでるけど、空気読まない でありたい。


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(エメラルド寺院)

 今回の遺心伝信は、前稿~言葉~で、書いたことともつながっていると思うので、前稿の考えも含めて読んで下さい。
 「空気読めよ」。僕が大学の頃から、この言葉が流行りだして、僕なんかは、今までに、もー何度となく、「空気読めよ」、「空気読めないな~」って言われてきた。そんな時、僕は、「空気は読んでるけど、あえてシカトしとんのや!」と吠えて、場の雰囲気に敢えて従わないのを楽しんでいた感がある。仕事始めてからは、なかなか楽しむというわけにはいかず、一つの方向へ流れがちな場の雰囲気に流されないように、ビビりながらも、必死に叫んでいるわけだが。
 前稿にも書いたし、秋に発行された推薦図書の文章にも書いたことだけど、日本は全体主義的・集団主義的傾向が強い国だと思う。全体主義とは、(戦前や戦時中の全体主義は、国家レベルでの考え方なので、解釈の仕方がちょっと違うが、)簡単に言えば、個人の考えよりも集団の和を大切にする。それぞれが違うよりも、みんなが同じであることを重視する。個人個人でやるよりも、協力して、団結してやるという考え方。協力・団結することは、もちろん良いことである場合が多いし、僕もそれに反対するつもりはないが、集団の和を大切にするあまり、個人の考えをないがしろにし、場合によっては、つぶしてしまっている。
 そーゆー空気が充満している国だからこそ、多くの人は、空気を乱すことを恐れ、波風立てないように、周りに合わせながら発言したり、行動したりする。そして、ますます画一的になっていき、なかなか思い切ったことを言ったり、やったりできない社会が正当化され、新しいことや、全体の流れに逆らうようなことをすると、「出る杭は打たれ」、和を乱すとされ、空気読めと言われ、君たちの間では「KY」と言われる。
 じゃー、欧米と比べて、なぜ日本が全体主義的傾向が強いかと言えば、一般的に言って、まず地理的には、島国であって、周りの国々との交流が比較的少なく、また、(そのせいでアイヌの人々や、在日朝鮮人、沖縄の人々など、もちろん色々な民族が住んでいるが、)欧米に比べれば、比較的単一民族国家であったから。歴史的には、平安と江戸の2度、数百年に渡って鎖国状態にあったから。また、外国との戦争が近代までほとんどなく、滅ぼされるという危険がなかったから。社会的には、農耕社会であったので、生きるための糧を得るために、個人の主張より、全体の調和が優先されたから。精神的には、儒教的な、「仁」「義」「礼」とか、「忠」「孝」などの考え方が、日本人の心を1千年以上に渡って支配しており、戦後、欧米的な考え方が大量に入ってきても、日本人の心には意識していなくとも、根強く残っているから。(無論儒教思想には、良いところも無数にあることは自明だが。)簡単に言えば、こんなところでは。(もー少し詳しく書こうと思えば、書けるが、前稿のように長くなってしまうのは避けたいし、また、所詮もー少しだけ詳しく書けるだけで、決して詳しいわけではないのでこんなもんにしときます。興味ある人は直接話しましょう。)
 で、別に僕は空気読まないのが、素晴らしいと言っているわけではない。ただ。あまりにも全体の空気に流されすぎてませんか?それに乗っかって、自分の頭で考えることやめてませんか?長いものに巻かれて、自分自身の考え、自己本位の視点を忘れてませんか?と思うのだ。
 もちろん、みんなが真剣に議論している時に、茶化してしまったり、一致団結して何かをしている時に、くだらないと言って、雰囲気を壊してしまったりすることは良くないと思う。僕だって、例えば、友達と飲んで、馬鹿話をしている時は、ちょっと自分の考えとは違うな~と思っても、空気を読んで、話がおもしろい方にいくよーにする。じゃなきゃ、10数年ずーっとイジラれキャラなんかやってられない。そーゆー意味では、僕にはタブー(禁句)がほとんどない。それはちょっと言い過ぎだろうとゆーイジラれ方をされても、それに対して、反抗するより、その場がおもしろくなるためには、笑って、さらに自分をおとしめたりして、さらに笑いを誘おうとする。
 ただ自分が、本当に大切に思っていること(僕は結婚もしてないし、彼女もいないし、写真以外はこれと言った趣味もないので、今自分が心底真剣にやっているのは「教育」なのだが、)に関しては、長いものに巻かれず、しっかりと自分の考えを述べるし、茶化されたり、馬鹿にされたときには、真剣に怒る。
 僕が言っているのは、そんな難しいことではなくて、周りの空気に簡単に流されたりせず、真剣になるのを恥ずかしいと思ったりせず、好きなことを好き、嫌いなことを嫌い、正しいと思うことを正しい、間違ってると思うことを間違ってる、とはっきり言葉や行動に表すということだ。それをなんとなく言えなくて、周りに合わせているうちに、いつの間にか、それが当たり前になってしまう。それはとても悲しいことではないかな。まっすぐな眼を持って、まっすぐにモノを見て、まっすぐに想いを述べる。それってとっても大切なことで、素晴らしいことじゃないかな。もちろん、そうすれば、摩擦や軋轢は起こりやすいから苦しむことはあると思うけど、僕は、若いうちは、若いうちこそは、もっともっと「自分を突き詰めて」、時にはエゴイスティックに生きていった方がいいと思う。その中で、色々失敗して、考えて、成長していくんじゃないかな~。当たり前のこと書いてるけど、でも案外当たり前のことができなくて、ホントはこう思うのに、と思いながらも、周りを気にして、KYになるのが嫌で、言えてないこと、動けてないこと多くない?
 「自分の想い」を、周りから見て素直(≒無難)な人間じゃなく、自分から見て素直に、ぶちまけてみよー。

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(アユタヤ)

前稿~言葉~について追記

 僕は、このエッセーを自分のブログやMIXIにも掲載しているのだが、沖縄時代の教え子(と言ったらおこがましいけど、)で、すごく色々考えてるな~、賢いな~と思う子が、MIXIによくコメントをくれるんです。
 それで、前稿を掲載したら、僕の「自分の言葉で話す」ってのは、「メディア・リテラシー」って考え方につながるんじゃないですか。とコメントをくれた。メディア・リテラシーって言葉は何度か読んだり、聞いたりしたことがあったけど、恥ずかしながら、ちゃんと理解しようとしたことがなかったので、ウィキペディアなどを中心にネットで調べてみた。
 そしたら、メディア・リテラシー=情報メディアを主体的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」。とあった。ふむふむ、僕の言いたいことに確かに近いな。で、僕はそこから一歩進んで、知識(情報)を取り入れ、納得した上で、自分の言葉で発信する大切さについて書いたということだなと思っていたら、「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もある、と書いてあった。
 そういう解釈をすれば、僕の言っている「自分の言葉で話す」=メディア・リテラシーということも言える。そこで、思ったのは、こんなよく聞く言葉の意味も知らずに、僕は色々述べていたんだな~、知らないことだらけだ~と思いつつ、自分で(自分でではないけど、様々な影響を受けながらも、自分で)作り上げてきたものが、メディア・リテラシーとゆー言葉で一般には言われているんだと知り、僕は世の中とそんなにズレてるわけじゃないんだなと安心した。でも、世の中が認めてるから、だから自分は正しいと思うのは、軽率だぞと、慎重になりもした。また、自分の言葉が、メディア・リテラシーって言葉に取って代わられたら、それはそれで、自分の中にある考えが、メディア・リテラシーって言葉に引っ張られそうで怖かったりもした。

 次稿は、今回書いたこととは、ある意味、逆の論理で、書きたいと思っています。それでは。

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(バンコク)

最後にタイでのお馬鹿写真
「スト2の準ボスキャラ、サガットのタイガーアッパーカット in タイ」

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※今回もタイの写真より。
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コメント

まりん へ~

ブログ全部読んだって・・・嘘やろ。
めためた量あるやん。無理やろ。
でも、ありがとう。

行こうと思えば、いっぱい行けます。
いろんなところに。
大学行って、バイトしてお金ためて、いろんなとこで見て聞いて感じたらい~さ~。
俺は大学時代海ばっかにお金使ってたから、今は陸で行きたいとこまだまだいっぱい。

2009/01/19 (Mon) 20:40 | joe #uxYHNhu6 | URL | 編集
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2009/01/19 (Mon) 02:04 | # | | 編集

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